第28話   文久3年の釣   平成16年10月18日  

垂釣筌に云う「今日は高い門構えの家の人も釣に出掛け、又荷物を背負って商う人々も出掛け、路にはぞろぞろと釣り人が続き晴れの日も、曇りの日も竿の触れ合う音、人々の足音の聞こえない人とて無い。これまことに世の中の太平をたたえていると云うべきである」と。


「垂釣筌」は文久3年(1863)に藩士陶山槁木により書かれたものである。この年の3月英国艦隊が神奈川沖に来航し、4月には清川村出身の志士清河八郎が暗殺という事件等が起り、急遽藩士の倅など数十名が召集せられ江戸に出発している。いくら陶山槁木が隠居したとは云え、郡代まで勤め上げた人物であったから幕末の騒々しい国内の動きを知らぬ筈は無い。が、東北の片田舎の酒井藩の大半の者は、まだまだ太平の世が続くものと考えていたから、大衆を巻き込んでの釣にうつつをぬかしていたのである。陶山槁木は庄内竿を完成させたと云われている陶山運平の兄である。江戸から取り寄せた釣り針に不満を持ち、わざわざ酒田に出向き長崎から来ていた蘭学者より鋼の鍛え方を乞い自ら工夫製作するほどの釣り好きで、磯釣りを自他共に認められる釣の名人でもあったのだ。

以前加茂から由良までに至る釣場の案内図の続編として書かれたのが、「垂釣筌」である。その中で「以前ここで釣れたから、或いは他の釣り人が釣ったから其処で釣ると云う輩(やから)で偶々稀に竿の先につるしたからと云って、それはただのまぐれに過ぎないのではなかろうか」と述べ、自分はそんなな輩とは違うと云う事を堂々と述べている。

釣場は生き物であるから、その日の天候、潮の状態で刻々と変わって行くものである。それを以前其処で釣れたからと云って、今日も必ず釣れるとは限らないと云っているのである。それでも偶々釣った人はまぐれで釣れたと云う事で決して自慢にはならない。自分はそんな輩とは一線を画した釣師なのであると・・・・。そんな訳で、釣歴数十年のノウハウをすべて公開しても、釣れぬ人には絶対に釣れぬと云う自信の程が窺い知れるのである。今の釣の案内書と同じで、取り巻きの釣り好きの同僚から乞われて書いたものであるが、釣れる岩、釣れない岩などのランクを始め、長年培った槁木の釣のノウハウのすべて公開している。

この年江戸に召集された藩士の子弟21名の中に氏家正綱の子氏家直綱(弘化2年1845〜明治44年1911)がいた。後年彼が作った「鯛鱸摺形巻」(タイ、すずき すりかたのまき=庄内で現存する4番目に古い魚拓)の巻頭を飾るのが、奇しくも文久3年陰暦の715日午後2時江戸は仙台河岸(現在の汐留)で釣った黒鯛一尺一寸八分の魚拓である。

     左図の魚拓は「鯛鱸摺形巻」の江戸仙台河岸の黒鯛